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努力の男、本田圭佑。子供時代からACミランまで [本田圭佑]

本田圭佑は天才”と思っているかた、

多いのではないでしょうか。 

確かに日本を代表するサッカー選手ですし、

天才と言われて納得できるところもたくさんあります。 

ですが本田選手自身、「自分に才能はない」と語っています。

本田圭佑 横顔.jpg

ここでは努力の男、本田圭佑の奇跡をたどってみたいと思います。

本田圭佑選手の努力の歴史が、

みなさんの人生の参考になればと願っています。

 

 

まずは本田圭佑選手の少年時代から見ていきましょう。

ワールドカップの出場を決定する試合で本田選手がPKを決めた時、

父方の祖父の大三郎さんがマスコミからインタビューを受けましたが、

大三郎さんは本田圭佑のメンタルの強さの源を問われるとこのようなことを答えました。

「あいつはほんとにメンタルが強いのかなと疑問思った。

負けず嫌いなところがあるのは間違いないけど、強いというより強がっているという感じ。

実はものすごい臆病なんだよ。だからトレーニングも人一倍やらないと怖いし不安になる。

これは本田家の血統と言えるかもしれない」

 

本田選手の意外な一面を見た気がしました。 

ですが本田家の家系は本田選手以外にもオリンピック選手を2人出していますから、

本田家独特のマインドというものがあるのでしょう。

身近なところに成功したオリンピック選手がいるので、

「僕もいつかはなれる」という自信を抱かせたのかもしれません。 

本田選手はある意味恵まれた環境に育ったとも言えます。

 

また大三郎さんはこうも言います。

「圭佑はグランドの中で表現する時と家族の中で話をするときはぜんぜん違う。

外ではふてぶてしく見えるけれど、そんなに大胆なものは持っていない。

気の小さい、人に気遣いする男だよ」 

大抵メディアの前のビッグマウスな本田選手ばかりが取り上げられますが、

”臆病さからくる努力”という裏打ちがあったからなんですね。

 

さらに本田選手は両親の離婚を経験しています。

本田圭佑選手の祖父の大三郎さんはインタビューで

「圭佑は有名になって離れた母親に自分のことを知ってもらいたい、という気持ちがあったのでは」 

ということも言っておられました。 

母親と離れて暮らすことになったということが、

本田圭佑選手のパワーの源になったということは十分に考えられます。

誰よりも長くグラウンドで練習していたという本田圭佑選手。 

”練習した分だけ上手くなる”という、誰もが頭ではわかっていても実行できないことを、

常に実際に実行し続けたというのが本田圭佑という男なのです。

 

ここで本田圭佑選手の祖父の大三郎さんの名言を1つ(笑)

「圭佑は追い込まないといけない。追い込まないと新しいものが生まれない男だ。

だからうんと背負えばいいと思う。

大胆な発言ももっとやればいい。

日本中が敵に回るくらいの発言をすればいい。

ケガをして苦しむのもムダではない。

どんどん苦しめ。

人は流した涙の数だけ強くなる」 

本田圭佑選手に負けないカッコイイ名言ですね……むしろ本田以上!?

まるで長老のような本田選手の祖父のインタビューでした。

本田圭佑 苦い顔.jpg

 

 

ガンバ大阪ジュニアユース時代 

本田圭佑選手はガンバ大阪のジュニアユース時代に挫折を経験したと言われています。

それは実力不足によりユースに昇格できなかったこと。

本田選手はその当時は今のように目立つ選手でもなく、

同学年で当時天才と騒がれていた家長昭博の影に隠れてしまうような存在だったそうです。

中学時代は本田選手も「なかなか良い」と言われるくらいで、

足が遅く体力がないという欠点を克服できずにいました。 

もちろん家長昭博選手いがいにも本田圭佑より上手い選手がゴロゴロしていましたので、

結局卒業まで”準レギュラー”から上へは行けなかったとのこと。

ですから本田選手は遅咲きとも言えるかもしれません。

 

 

星陵高校時代 

ガンバ大阪ジュニアユースを卒業してサッカーの名門、

石川県の星陵高校に入学した本田選手。 

久しぶりに本田圭佑を目にしたガンバ大阪ジュニアユース監督の上野山さんは、

本田圭佑選手の体がデカくなっているのに驚いたそうです。

昔は華奢だったのに「信じられへんな」という状態に。

ですがこの頃も本田選手は体力に問題があり、

自分はあまり動かず仲間に指示ばかりだしていたのだとか(笑)

でもそのあと選手権で活躍して、ようやくプロへの切符をつかむこととなります。 

 

 

名古屋グランパスエイト時代

本田選手は高校卒業と同時に名古屋グランパスエイトに入団。

しかし名古屋グランパスエイト時代もそこまで際立った選手ではなかったのだとか。 

もちろん本人は努力していたのでしょうが、なかなか突き抜けるまでには至らなかった。 

ですが当時のチームメイトいわく「左足のキック力はすごかった」のだそう。 

 

 

VVVフェンロー時代

本田選手はオランダのVVV(フェイフェイフェイまたはフェーフェーフェ―と読む)に移籍したあとも、

なかなか上に登れずにいました。

本田圭佑 VVVフェンロー時代.jpg

チームも2部に落ち、1部のチームにも移籍できない状態。

さらに2008年の北京オリンピックでは活躍するも3戦全敗。 

ですがその頃から本田選手のプレースタイルが変わってきたという証言も。

「何が何でも点を取りにいく」という今のスタイルはその頃の経験が元になっているのだとか。 

 

 

CSKAモスクワ時代

本田選手は日本ではスター選手の仲間入りをしていましたが、

モスクワ時代も現地では注目されるような選手ではありませんでした。

一時的には活躍する時期もあったものの、右膝半月板損傷や左足首の故障など、

ケガも多くフラストレーションが溜まる日々だったでしょう。

チーム内でも不慣れなボランチ(中盤で相手のパスを止め攻撃を止めたり、パスを散らすなど、

ディフェンス寄りの舵取り的な役割)を任され、

思うような結果を出せませんでした。

いまの本田圭佑選手の攻撃的なスタイルは、

その頃の「前に出れなかった」という苦い経験があるからなのかもしれません。 

現地では「しょせん極東のお山の大将」「すでに終わった選手」と言われることもあったのだとか。

ただ本田選手の人一倍努力をするというスタイルは評価されていたようです。

でもそれが結果につながらなかった。 

 

 

ACミラン時代(現在)

念願のACミランについに入団。

本田圭佑がミランに入団できたのはもちろん実力があると認められたからですが、 

「左利きだった」「日本企業からのスポンサー収入が期待できる」など、

さまざまな要因が考えられます。

移籍当初は本田選手の評価は最悪といってもいいほど。

メディアから叩かれる毎日でした。

それでも本田選手は人一倍努力するというスタイルは一切崩さず、

過去の怪我の経験などからコンディション調整などにもかなりの時間を費やす日々。 

そして2014年の後半はついに、

得点ランキングでトップ争いをするほどに成長。  

チームメイトからも、

「本田は素晴らしい選手。常によく練習している。

疲れを取るリカバリーの時も彼は走っている。

努力は報われる。今の結果はふさわしい」

とかなりの高評価。

以前は「ミラン史上最低の10番」などと”本田不要説”が飛び出すこともありましたから、

本田の努力が周囲に認められてきていると言えるでしょう。 

 

本田選手のこんな言葉があります。

「ちゃんとした過程を経て成功するのと、偶然成功するのとでは、

まったく違ってくると思いますよ」

偶然の成功は長くは続きませんよね。

本田選手のように数々の伝説を作り上げていくためには、

努力にもとづいた根本的な部分での実力が必要なのです。

 

 

 

個人的には2018年のワールドカップ(しかも開催地は結果が出せなかったロシア)で、

本田選手が活躍してくれると信じています。

どこまで本田選手が進化するのか、

最後まで見届けたいですね! 

 


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