本田圭佑の人生。苦労を乗り越えた子供時代 [本田圭佑]
本田圭佑選手といえば、
サッカーのスター選手で自分流のファッションを持っていて……
と華やかな印象がありますよね。
ですが本田選手は子供の頃は決して裕福な家庭ではなく、
苦労したこともたくさんあったそうです。
ここではそんな本田選手の子供時代を見ていきたいと思います。
本田選手は19歳で名古屋グランパスでプロ選手としてデビューしましたが、
その頃から仲間とつるんだりすることはなかったそうです。
でもチーム内の年上の人達もそれを認めていたそうなので、
浮くわけではありませんでした。
本田選手はあるインタビューでそのことを聞かれると、
「プロですから僕は。
答えはピッチの上で出せばいいし、
そこには先輩も後輩もない。
そこがプロスポーツのいいところ。
練習や試合の後みんなとゲームをやったりカラオケに行ったりするのは好きじゃない。
部屋でひとり本でも読んでいる方が性に合っているんです」
と答えていました。
こういったインタビュー記事などを見ていくと、
「本田選手は自己中なのかな?」と思ってしまいそうですが、
なにかそういう性格になった原因や理由があるのかなと気になってきます。
本田選手は度重なる父親の事業の失敗が原因で、
小学2年生の頃に両親が離婚。
親代わりとなってくれた祖父母はほかの子供も引き取っていたために、
生活費を稼ぐために朝から夜遅くまで働きづめ。
小学生の頃は一緒に祖父母に引き取られた3つ上の兄と一緒にサッカーをする日々だったそうです。
でも兄が中学に入ると本田少年はひとりぼっち。
地元のクラブチームにも所属していましたが、
練習は土日だけ。
そこで本田選手は自然と兄が通う中学校のサッカー部に通うこととなりました。
中学校のサッカー部では、
本田選手はチームが勝つことよりも相手と1対1で勝つことにこだわっていたそうです。
小学6年生の時に骨折してもギプスをしたままサッカーをするほど根性がすわっていたそうです。
本田選手は中学生になるとガンバ大阪のジュニアユースに入団。
ですがそこで急激な身体の成長による倦怠感や脚への痛みが出る”クラムジー”になってしまいます。
思うように体が動かない本田選手は、
ひとり苦しんでいたようでした。
ところでジュニアユース時代の本田選手はいまだ貧しい家庭環境でしたから、
練習後に帰宅してもご飯が食べられないことも日常茶飯事だったのだとか。
そんな時は「お前んちで晩飯食ってもエエか?」と、
チームメイトの家に転がり込むこともあったそうです。
しかも炊飯器が空になるまでご飯をおかわりするのだとか。
「ちょっとは遠慮せえよ!」と言われても気にしない様子だったそうです。
育ち盛りでご飯も食べられないとなると、
「気になんてしてられない」のかもしれませんが……
他のチームメイトの家も色々とまわっていたそうです。
本田選手の幼少期の情報は少ないため多くはわかりませんが、
両親が離婚してからはかなり苦労していたことが想像できますね。
ちなみにガンバ大阪のジュニアユースに入った中学時代の本田選手は、
チームの中では1番ヘタクソだったのだとか。
でも態度は大きく、
関西から集められたサッカーのエリートたちに遠慮なく指示を出す。
当時チームメイトたちからは、
本田選手はあまり良く思われていなかったのだそう。
また当時のチームメイトの中には「裏口から入ったのでは?」と思っていた人もいたほど。
また中学時代の本田選手は、
赤いタンクトップとジーンズ、ボロボロのスニーカーと、
いつも同じ服。
冬はその上にダウンジャケットを羽織っていたそうです。
家が裕福ではないので仕方ないのですが、
まわりの中学生からしてみたら、
あまり関わりたくない出で立ちだったのかもしれません。
でも本田選手はチームの仲間が帰宅するときなどには追いかけてきて、
仲間の会話に割り込んでくるようなことも度々あったそうです。
チームメイトからは避けられていた感もありますが、
本田選手なりにチームメイトと仲良くなろうと努力していたのかもしれません。
その頃ジュニアユースの絶対的エースだった家長昭博選手とは、
いつも喧嘩したり張り合ったりしていたそうですが、
2人はいまでも良き友人だそう。
本田選手は腕力だけは誰にも負けなかったそうです。
また本田選手はチームメイトとカラオケに行くと、
マイクを離さずにラルク・アン・シエルの歌を熱唱し続け、
「ええかげんに代わらんか!」と言われることもあったそうです。
負けず嫌いなのか、強情なのか……
意地というか、
本田選手なりのハングリー精神みたいなものなのかもしれません。
ですが本田選手はチームメイトからいじめられたり仲間はずれにされていたわけではなく、
リーダー的存在になろうとしていたそうです。
ジュニアユースにのバーベキュー大会などでも、
自分が1番に率先して集団をまとめていこうとしていたそうですよ。
そんな負けず嫌いの本田選手でしたが、
やっぱりチームメイトの中には本田選手のことを「ウザい」と思う人も多かったそう。
コーチの「もっと走れ」という指示にも耳を貸さず、
ひたすらパスやキックの精度を高めることに執着しました。
本田選手が周囲からのバッシングを受けるのは、
今も昔も変わっていないようですね(笑)
ですが本田選手は周囲からヘタだと言われていても、
子供ながらに世界一のサッカー選手を目指して、
そのための準備をしているようにも見えます。
本田選手が高校進学時ユースチームへの入団を断られた時も、
「おれはルートを変えてプロに行くわ」と周囲に言っていたそうです。
チームメイトからは負け惜しみと思われていたようですが、
もちろん本田選手は本気だったでしょう。
そんな周囲からはよく思われないことも多かった本田選手ですが、
高校生サッカーの全国大会で注目されるようになった頃には、
体も驚くほどに大きくなり、
中学時代の本田選手を知る人達からは「これがあの本田か!?」と思われるように。
ただ「走れない」というところは変わっていなかったのだとか(笑)
現在のジュニアユースのスタッフたちは、
本田選手の才能だけを見抜けなかったことが悔しそうでした。
ところで、本田選手が小学生の頃から書いていた「本田ノート」というものがあります。
これは本田選手の大叔父である、
元オリンピック選手の大三郎さんが本田選手に書くことを勧められたそうです。
本田選手が小学4年生のころ、
カヌーの日本代表監督だった大叔父の大三郎さんが本田選手の家を訪ねました。
そのとき家で寝転がっていた本田選手は飛び起き、
「どうすればおっちゃんや多聞兄ちゃんみたいに強くなれるんや?」
と大三郎さんに聞いたそうです。
そのとき大三郎さんは、
いま寝転んどったな!そんなんじゃダメだ!ノートを持ってこい!」
と本田選手に新しいノートを持ってくるように促したそうです。
本田選手はノートにその日の体調や起床時間、
食事内容や練習内容などを事細かく書くように教えられました。
しかもそのノートには「あのコーチが悪い」など、ネガティブなことは一切書かない。
悪口などは言い訳に過ぎませんし、ポジティブ思考を持つことにもつながります。
さらに練習内容を振り返ってノートを書くことは、
「もう一回練習した」ような効果もあるということです。
現在ACミランで活躍する本田選手は高級ブランドに身を固め、
少年時代の面影は無いように思えますが、
大叔父の大三郎さんからすれば「あえて注目を集めることで自分にプレッシャーをかけている」のだとか。
周囲からは「貧乏時代の反動」というように言われることもありますが、
本田選手のキャラ作り作戦なのでしょう。
貧乏時代の悔しさからの反動も多少はあるのかもしれませんが(笑)
以上、本田選手の子供時代をさまざま見てきました。
マスコミの情報の全てが確かなものだとは言い切れませんが、
スター選手の本田圭佑が誕生する秘密を、
少しだけ解き明かすことができたのでは?と思います。